・・・今から足かけ四年も前に、著者から直接この「インド紀行」をぜひ日本の読者に紹介してもらひたい旨の希望を告げられた。それがこの翻訳の動機なのは云ふまでもない。ただ訳者性来の遅筆が祟って、ぐづぐづしているうちに盟邦への通信が不可能となり、今折角曲りなりにも著者の希望をみたしたのに、それを遽かに著者へ報ずるすべがなくなつたのは、大きな心残りである。
昭和18年3月に書かれた「インド紀行」の訳者による「はしがき」です。第二次世界大戦の戦況が実感できますね。
じつはまだ読み終わっていないのですが、なにしろ面白いし、あまり大ヒットしそうもない本ですので、抜書きを紹介したくなってしまいました。(でも岩波文庫の「リクエスト復刊」シリーズですので、根強い人気はあるようです。当然だと思いますけど。)
語り手の「余」は著者のボンゼルス本人です。
ドイツ人で詩人で「蜜蜂マアヤ」の作者。この「はしがき」が書かれた昭和18年には63歳でした。ということは1943年に63歳だから、1880年に生まれたということになります。先日のヘッセとだいたい同じ頃です。日本は西南の役で、インドでは「ヴィクトリア、インド皇帝の称をとる」。イギリス人が残虐非道な(見たわけではありませんけど)インド統治をしていた頃です。
「余」は(理由は一切書かれていませんが)インドに住むことになり、それまでイギリス人将校が借りていた家・・・植物が部屋の中まで生い茂り、ネズミその他の様々な動物がすでに住み着いている家・・・を借り受けます。(家主はドイツという国があることを知りませんでした。)
そして「余」はジャングルを旅行したり、インドの独立運動の活動家に出会ったりするのですが、景色や人や「余」の内面の描写がホントにおもしろい~!です。
一例をどうぞ・・・
だからこそ海は、決して人間の魂との近似性をもたない。海をも人間の魂をも知らぬ多くの人たち、そして魂の中に何か底知れぬものがありさうだといふ、単にそれだけの理由で、魂はおそらく大洋の沖合ほど深いだらうと考へるに至つた多くの人たちは、この近似性を確認したのだが、これは容易に証明できぬ軽率な推論であつて、かかる魂と海とのただ一つ似ている点は、両者の中でよく吾々はあちこちと釣をして、何の獲物もないといふことだけである。
次は召使のインド人パアニヤ(20代の青年らしい)との会話です。ボンゼルスはしょっちゅう夜遊びをしているパアニヤに結婚することを勧めています。
(ボンゼルス)・・・しかしあるきまつた女がまっている場合でないと、心がきつと籠の鳥のやうな気持ちになる、といふこともないとは限らないよ。」
パアニヤはぢつと考え込んでいた。「そりやないとも限りませんとも、旦那様。でもそんなのはひとしきりですよ。」
「その代わりに何か別のものが来るんだらう。」
「何が来るとおつしやるのですか、旦那様。」
「息子か何かがね。」
「おやおや。」とパアニヤはまごついて云つた。「いきなり最悪の場合を考える人があるものですか・・・
(パアニヤ)「女はようするにみんなばかだといふことに、一度もお気付きになつたことがないのですか。それはね、虎を見ても鼠を見ても同じやうにこわがるのを見れば、すぐに分かりますよ。何しろこの二つの動物の区別さへ付かないのですからね。だから女にはいろんな男の区別もつかないわけで・・・
(パアニヤ)「・・・しかしこつちが、利口な人ならみんな感心しそうな、気の利いたことを云ふと、そんなことはすぐに忘れてしまひます。そのわけはそれを髪に挿すことができないからにすぎません。」
・・・さて、引用はこのくらいにして、読書のほうを再開することにします。
インド人活動家が「余」の家を訪ねて来る場面です。
0 件のコメント:
コメントを投稿