2010年1月18日月曜日

インド紀行・続き



 先日は、Ministry of Justice「ミニストリー オブ ジャスティス」 を、「ミステリー オブ ジャスティス」と読みました。


 今日は「私大併願」を、「わたしのだいへいがん」と読みました。(ホントに何のことかと思いました。)


 さて、「インド紀行」、読み終わって想像以上の感動です。

 スジとしては、その後ジャングル探検などを終えてある町に滞在していた「余」が活動家のマンゲッシュ・ラアオ(婆羅門階級の出身)に強く惹かれて親しく付き合うのですが、ある日彼はイギリス政府ではなく同国人の婆羅門に毒殺されてしまい、「余」は故郷へ帰ることを考える・・・・というものです。


 先日引用した召使のパアニヤがバラモン階級の活動家に初めて会った時の描写がかなり面白いので引用してみます。「女はようするにみんなばかだ」という意見を述べる時のパアニヤを思い出しながら読んでみてください。


音も立てず慎み深くパアニヤが茶と煙草を運んできた。彼がいとも慇懃かつ荘重にこの婆羅門に挨拶する様子を見て、余は少なからず驚いた。婆羅門は額をうつむけさへもせずに、目づかひだけで会釈を返したのである。


 次はマンゲッシュ・ラアオの言葉です。長々と引用します。

「あなたが確かさといふ言葉で意味してしてをられるのは、蛇に向かつて踏み出した最後の一歩だつたのですね。」と婆羅門は云つた。「どこで生が終わりどこで死がはじまるのか、それを云つて下さることができるなら、わたしは死を説明してあげようと思ひます。その境界をあなたは植物に又は岩石に、それとも動物に求めようとなさるのですか。自然界のどこを見ても、わたしにはあらゆる老衰した形態の復活が見えます。岩石の中の結晶体の形成にまでわたしは生命を認めるのです。そして美しくもあれば思索的にも見える。さう云つた凝結の数学的な秩序の中に、わたしは自分が呼吸し運動し苦楽をなめる時の基準となるいろいろな法則が認められると思ひます。死とは吾々の五官が、その時間概念を局限されているために余儀なく設ける、漠然たる仮定です。そして吾々の意識性はどうかと云へば、吾々があらゆる生きたものの普遍性の中に包まれていればいるほど、或ひはさう感ずれば感ずるほど、死への信念は意識性にとつて益々遠いものになります。しかもなほ死は真理と同じやうなものです。つまり両方とも生きた魂のもつ他の一切の要素よりも確実に感じられ得るのですが、しかし説明されることはできません。世の中にはいつでも二種類の人間があるわけでせう。一方の人たちは死を自己の本質の義務と解しますし、他の人々はそれを自己以外の力の任意な動きと解するのですね。あなた方の教会は死を罪への報いだと教へていますが、しかしあなた方の神はそれを自発的な義務として死んだのではありませんか。」



 次は「みつばちマアヤ」が楽しみです。



PS:今日の写真は2006年の今頃に撮ったものです。あの年は雪雲の残りらしいモクモクと元気のいい低い雲がしょっちゅう見られました。今年はお正月頃にちょっとそんな時期があっただけですね、今のところ・・・。



 

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